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VIKI個展「mirrorge」美術解説するぞー(鈴木博文)さん寄稿文

mirrorge

VIKI Solo exhibition


会期 | 2024年3月15日(金) - 3月21日(木)

時間 | 13:00-19:00   (3/21-17:00) 

場所 | 東京都世田谷区奥沢5-41-2 アトラス自由が丘ビル1F

会場・協力 | ギャラリー自由が丘



見える像と見えてくる「像」ーVIKI ViableKids.の芸術

 

文:美術解説するぞー(鈴木博文) 

 

Unconscious MirrorLOT.001
Unconscious MirrorLOT.001

 筆者が初めてVIKIの作品を実見したのは、2021年の大学卒業・修了制作展の時である。あの時展示されていたのはunconscious mirror(無意識の鏡)の作品群だったが、率直にレシートが使われている意外性と、シニカルでウィットに富んだしかけが印象深かった。

 未だに作品の売約済を示す「赤シール」を見るとVIKIの作品が脳裏をよぎることを考えると、筆者の人生においてあの作品はかなり強烈な印象を与えたことは間違いない。

 そもそもVIKIのレシートを使ったこれらの表現から、一体どんな感受を得られるのか。それは実にさまざまな方向性から検証する余地があり、全てをここに記すことは残念ながら今回与えられた紙面上では難しいだろう。

 なので、今回は本展のタイトルでもあり、シリーズとしても展開が図られている「mirrorge」の観点から、造形に見られる表現構造と、そこから受ける感受について、話題を狭めて鑑賞することをどうか許していただきたい。

 



 まず、mirrorge(ミラージュ)という言葉は作家の造語である。蜃気楼や幻影を指すmirageと、鏡を示すmirrorをキーワードにコラージュしたものだという。

 蜃気楼や鏡に映る像は、いずれも視覚的には像が結ぶがそこに実態はない、いわば「虚」の像を指す言葉である。 

  VIKIの作品を離れたところから鑑賞すると、朧げにどこかで見たことのあるような人の顔や、何かの形が見えてくる。しかし、近づくとまさに蜃気楼のように見えていた像は崩れていってしまう。代わりに見えてくるのは、レシートに印字された無数の文字情報だ。

 このような鑑賞距離によって、像と素材の見え方が入れ替わる効果を理論的に取り入れる手法は、かつての印象派の画家のそれと酷似している。モネやドガといった「西洋モダニズム芸術の先駆け的時代」の作品は、離れて鑑賞すると景色や人に見えるが、よく見ようと作品に近づくと、次第に像が崩れ、やがて絵の具の塊にしか見えなくなる。

 この「一定の距離から像を結ぶのが困難になる」現象を蜃気楼に例えるのであれば、なるほど非常にわかりやすい。

 しかし、筆者にはこの蜃気楼的効果について、VIKIの作品においては「遠くからは見えていたが次第に見えなくなる」だけではないと捉えている。というのも、先行世代のそれは絵の具の塊として像が霧散していくのに対して、VIKIの作品は接近するにあたって視覚的な像を失う代わりに、新たな「像」が “見えて ”くることを感受するからだ。

 このように鑑賞視点が、像から情報へ切り替わった時、「遠くからは見えていたが次第に見えなくなる」代わりに「遠くからは見えなかったが次第に “見えて” くる」ものは一体なんなのか、検証したい。

 

 一つは「信憑性のある情報」が作り出す、印象による「像」である。

 作家が「記憶のささくれ」と表現するように、レシートは自分の消費行動の結果として発生するものではあるが、まさにささくれた皮の端のようにぞんざいに廃棄されるものだ。

 しかし、その素材の特徴に焦点を当てると、写真と同等か、それ以上に証明性や記録性の高い素材であることに気付かされる。「いつ、どこで、どんなものを購入し、それがいくらだったのか」などが記載され、あらゆる証明資料としても使用される。

 作者によって解体され羅列された「信憑性の高い文字情報」を見た鑑賞者は、無意識にしかし確実に、自己の人生経験と情報を結びつけ、架空の人物「像」を脳内に出現させるのだ。買ったものや、値段などの文字列から浮かび上がるそのペルソナは、まさに蜃気楼のように実体を伴わず、曖昧な「像」を結ぶことだろう。

 

 また、作者は「現代の消費社会の様を強く意識して制作にあたっている」と語るが、レシートという「消費行動の証」が解体され、積み上げられ、熱を与えられ黒く塗りつぶされていく様は、まさに蔑ろに消費を延々と繰り返す社会の「像」としても見れるだろう。

 

 もう一つは「歴史や文脈」が生み出す「像」である。

    ここからは残念ながら世間一般からは嫌われている美術の歴史的な話題になるので、苦手な方は飛ばしてほしい。しかし、ここまで読んだ今、芸術文化のレトリックな部分に少し興味を持っていただけたなら、もうしばらくお付き合いいただきたい。


 VIKIの作品には、いわゆる王道の西洋美術史が、まるで懐かしのキャラクターのオマージュやサンプリングをするかのようにふんだんに盛り込まれている。ここに自分の整理も兼ねて、その時代ごとの「元ネタ」を一部羅列してみることとする。

  前述の印象派的な鑑賞距離の設計に始まり、何かを貼り付ける「コラージュ」という技法は、パブロ・ピカソをはじめとしたパピエコレから始まり、今なおメジャーに使われている技法である。

 次に「蜜蝋」については美術史上最古の絵画技法にも使われた素材で、その歴史は2000年以上とも言われるが、20世紀半ばの前衛美術が盛んだった時代に、数字や的といった変哲もないモチーフを美術作品として変換する際に、J・ジョーンズが絵画の正統性を担保すべく引用した「アンコスティック技法」としても知られている。

 それから、R・ラウシェンバーグをはじめとしたポップアートの文脈からも見ると、「大衆に広く認知された素材」を、ファインアートの方法で再構成、アレンジしているという点では、VIKIが「コンバインペインティング」の手法を意識していることが伺えるだろう。

 また、シルクスクリーンは日本の友禅染めの技法が源流と言われているが、印刷技術としてイギリスが改良し、それがやがてA・ウォーホルによって大量生産大量消費社会を象徴するファインアートの手法として取り込まれた。

 20世紀のこうしたモダニズムと呼ばれる大きな物語に登場する主要な “キャラクター” を、断片的に引用し再構成した、いわば “文脈のアッサンブラージュ” のような造形が、VIKIの作品には頻繁に見られる。

 特にそれが顕著なのが、本展にも展示される「mirrorge」のシリーズである。このシリーズはその製法に大きな特徴がある。

 まず下地に伝統的な西洋式のペインティングを施し、それをダンマル樹脂や蜜蝋を使って(つまり西洋の伝統的な画材で)レシートを積み重ねて消していく作業を行う。そうして積み上がった上層には、現代技術の象徴でもある印刷を行う。

 この時下層に施されたペインティングは、もはや目を凝らさなければ見えないほどに隠蔽されている。これらの手順を踏んだ製法は、まるで新たなものが積み上がり、過去が更新されていく歴史の様そのものではないだろうか。


 このような歴史が堆積している様を見ることで、私たちはあらゆる革新と問題を生み出した西洋美術の略史、その文脈の全体「像」を概念的に共有することができるのだ。

 あの時代は結局のところ、今現在に生きる私たちにどんな影響を与えているのか。20世紀の物語がしぶとく残留し「美術らしいイメージ」として積極的に消費されるこの21世紀。その壮大な物語の概要と、美術を美術たらしめている要素を、ある種冷静にただ記録として残そうとするVIKIの表現活動は、近い将来レシートが使用されなくなると同時に、きっと「過去の特異的な時代の記録」として如何様にも語られるだろう。

 


 このように幾種もの視覚的な像と、概念的な「像」を往復させるVIKIの造形だが、その詳細について筆者のように文脈を引っ張り出してペダンティックに語ることは、多くの場合において必要にならないこともここに挙げておく。

 というのも、これらの造形は「レシートを活用してアート作品を制作する」という意外なギャップだけで、網膜的に単純明快な鑑賞を提供し、鑑賞者はその発想の意外性に感動することができるからだ。

 「意外素材のリアルアート」や「サステナブルアート」としての「像」もまた、VIKIの作品には見られる。このような表層的な文脈での消費のされ方は、VIKIがこれまで何度もマスメディアに露出し、報道されている内容からも明白だ。 

 現代の消費社会の要請に応えて一過的な話題を提供する一方で、ライトな層からアカデミックな層まで幅広く鑑賞者を受け止める強度があるのが、VIKIの芸術の興味深い点であると思う。


 モナリザやマリリンと並んで、MANやWOMANの文字が視覚に飛び込んでくる。すると昨今話題の男女性の再考についても自ずと意識が向けられる。わかりやすい視覚情報を用いて作品との接触を図るポップアートの手法により、一見作品の理解が進むようにも感じるが、近づくにつれて新たな情報や文脈が見え隠れし、安易な理解を与えてくれない。

 

Boundaries
《Boundaries》

 「レシートでつくられたアート」という”蜃気楼”に釣られ、作品に誘われた鑑賞者は、作品を見ているようで、それに散りばめられた情報や文脈によって、自らでunconsciousな「像」を結ぶことになる。

 その現象は、作品が作者の内面性を変換した生産物ではなく、あくまでも鑑賞者にとっての鏡、自己意識を回帰させる装置となっていることを示している。

 



 しかしその鏡(作品)は鑑賞者に対して鮮明な像を結ぶことを拒むため、見れば見るほどに出現する新たな「像」や秘められた文脈に惑わされ、つかみどころのない芸術の砂漠に迷うことだろう。

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